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詩を考える

詩が、読めん。
名だたる文筆家と一つ屋根の下で暮らしていて、尚且つ家主の身でありながら、こんな台詞が出てくるあたりイッツ・ア・お里が知れ太郎。今晩あたり階上(もしくは階下)で寝食をむさぼるかの厭世詩家がおれの部屋にやってきて、「冷たいもの」をかざしながら詩の読めないおれに辞世の句を詠ませるかもしれない。それでもおれは言う。大手を広げて声を大にして言う。

 

詩が、読めん!

 

さんざん詩に触れた挙句の結論というのではない。家の本棚にぶち込まれているのは警句大全とでも呼ぶべき出来損ないの詩集が一冊のみ。つまり海に入らずして海が怖いと言っているに等しいのだが、おれはおれなりに詩への造詣を深めようと努力はしてきた。だが、詩を一遍読み始めると咀嚼に手こずり、嚥下に苦戦し、やっとのことで読み終えても胸のところにつかえのようなものがいつまでもいつまでも残るので、ついにはその不快感が詩への畏怖として定着した。おれが詩に触れて脳裏に浮かぶ言葉はただ一つ。「つまり、何が言いたいの?」これだけである。
ああ、おやめください丸橋御仁、そんなもの振り回さないで、刃渡り何センチですか、刃渡り何センチですかそれ、マグロでも解体するつもりですか、豊洲市場からかっぱらってきたんですか、やめて、やめて、妻も居るし愛犬も可愛いんです、読みますから、お願いだから、後世だから。
こんなクソみたいな冗談はさておき、詩というものに対するおれなりの見解を述べておこうと思う。

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まず、詩というのはおおむね印象のかたまりである。
人間が一人、立って眼前の風景や事象を目撃する時、その時その人間は自身の五感を通して一つの印象を受け取る。天気、気温、風向き、どこに光が差していてどこに影が生まれているのか。どんな音が聞こえ、また匂うか。社会はどんな問題を抱えているか、人々はどんな思想を抱いて生活しているか。そしてそれらすべてを一挙に目撃するその人のその時の心情はどうなっているか。一つ一つを意識せずとも、こうしたあらゆる情報が結合して一個の超自然的な印象をもたらし、それに曝露した人間が芸術を始める。
だが、印象というのは言ってみれば受け取る側の主観に過ぎず、たとえば全く同じ山を指して「青い」という人もあれば、「きいろい」という人もある。印象というのは個人の中にしか存在せず、それは決してナマのままでは出て行かない。つまり目撃したあらゆるものから得た印象を第三者に伝えるためには、印象に曝露した本人が一度形而上を通過させてあらゆる媒体に作り替える必要が生じる。これが詩や音楽や絵画、なべて芸術がこの世に表出する大まかなプロセスである。
印象を形而上で通過させる過程において、芸術家は無意識的に情報の取捨選択を行う。たとえば海を見てその色に着眼し、さざなみの音は切り捨てる。街を見て人々の生活と自身の心情を取り上げ、玄関先に並べられたプランターに関しては記述しない。この取捨選択の行為が、印象の発現媒体をある程度決めているものと思われる。
詩人が受けた印象を詩としてこの世に表出させ、それを第三者が詩として読む時、この読者は作者である詩人の受けたナマの印象とはほとんど異なる印象を受けることになる。ここで分かることは、詩というのは一応文芸作品ではあるけれど、それ以前に自然の一形態であるという事実である。つまり、上質な詩というのは街であり、海であり、夏であり冬であり、また人そのものである。詩に触れる時、人は理性の軛から放たれ、印象を印象のまま楽しむことを許される。

理性を呪いながらまた理性の柵に囲われているおれにとって、詩は恐ろしいものの代表格であり、できるだけ避けて生きてきた。詩が何かを「言っている」と思い込んでいたのだから無理はない。詩は何も語ってはいけない。ただ眼前の風景よろしく、ただそこに存在するものでなくてはならない。ただ存在するものだからこそ、時には一遍の詩が万言より多くを雄弁に語り尽くすことがある。それは人が空を見上げ、その青さにすべてを悟る様によく似ている。
詩があり、それを読む人がいる。読む以上、読者は印象を免れず、故に双方には活動が存在する。書き手と読み手の営みは永遠に続く。おれはそれをとても美しいことだと思う。

と、シュノーケルの用意はできた。あとは海に飛び込んで泳ぐだけ。つまり、たくさんの詩に触れることが今のおれには必要である。さしあたってはプーシキンあたりから始めてみるか。ではさようなら。

テオ・ 金丸

テオ・金丸です。コーポ湊鼠管理人。

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