僕のふくらはぎにはおっぱいがある。
いや、何、こんな書き出しで始めたからって、別に気が狂ったわけじゃない。確かに、今月家計が苦しいとか、毎日退屈だとか、毎夜ごとの歯軋りのせいで右の下の奥歯のエナメル質が削がれて味噌汁がメチャクチャしみるとか、今週末に控えたキャンプの日にドンピシャ雨予報がきてるとか、いろいろ懸念する材料はあるのだけれど、それとこれとは関係ない。
再度。僕のふくらはぎにはおっぱいがある。触って納得、見てガッカリのおっぱいである。適度な張りと弾力、独特の「たゆみ」は、おっぱい以外の何物でもない。
いや、疑う気持ちは分かる。人体の構造的に言っても、そんなことあり得るはずがない。本来おっぱいがあるべき場所とふくらはぎは、読んで字のごとく天と地の差があるのだから。もし本当にそんな人間が居たとしたら、アンビリーバボーに出演していてもおかしくはない。僕はアンビリーバボーには出演していないけど、ふくらはぎには本当におっぱいがある。
そんなに言うなら証拠として写真を出してみろ、とおっしゃる方があるかもしれないが、それはよそう。なぜって、さんざん「僕のふくらはぎはおっぱいです」と豪語しておいて、その実が、ひじきみたいな毛が申し訳程度生えた山芋みてえな男のふくらはぎであるなど、いくら価値観が多様化した現代でも誰の需要も勝ち得るはずもない。「これはおっぱいです」と言われて見せられたものがさして綺麗でもない山芋みてえな男のふくらはぎだった場合、思春期男子の7割は脳溢血を起こすという研究結果が出ている。この文章を思春期の男子が読んでいないとも限らない。だからやめよう。尊い人命のために。
さて、このふくらはぎおっぱい、略してふっぱいであるが、せっかくだから何か有効活用できる術はないものか、シャワーを浴びながら考えてみた。すぐに思いつくのは、えっと、πⅢ、うん。これでなんとか分かってくれないかな。分かってくれないと話が進まないんだけど。じゃあ、ペイズリー。まだダメ?これだいぶきわどいけどな。じゃあ、えっとあの、 乳棒乳 これでだいたい分かるかな。ね……。あっ待って。 乳棒乳 のほうがいい? 乳棒乳 ぐらいいっとく?どうする?前者?後者?あ、もしかして 乳棒乳 だったとか?ゴメンな。気持ちは分かるよ。
さて。自己肯定感の著しい低下を感じたりはしたが、兎も角話を戻そう。結論から言うと、ふっぱいで 乳棒乳 をするのは無理がある。太ももにおっぱいがあればまだ無理を通すこともできるが、ふくらはぎでは棒との距離があんまり遠すぎる。しかし僕はここである説法を思い出した。有名な「三尺三寸箸」である。以下。
昔、ある所に、地獄と極楽の見学に出掛けた男がいました。最初に、地獄へ行ってみると、そこはちょうど昼食の時間でした。食卓の両側には、罪人たちが、ずらりと並んでいます。
「地獄のことだから、きっと粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、なんと、豪華な料理が山盛りにならんでいます。
それなのに、罪人たちは、皆、ガリガリにやせこけている。「おかしいぞ」と思って、よく見ると、彼らの手には非常に長い箸が握られていました。恐らく1メートル以上もある長い箸でした。罪人たちは、その長い箸を必死に動かして、ご馳走を自分の口へ入れようとするが、とても入りません。イライラして、怒りだす者もいる。それどころか、隣の人が箸でつまんだ料理を奪おうとして、醜い争いが始まったのです。
次に、男は、極楽へ向かいました。夕食の時間らしく、極楽に往生した人たちが、食卓に仲良く座っていた。もちろん、料理は山海の珍味です。
「極楽の人は、さすがに皆、ふくよかで、肌もつややかだな」と思いながら、ふと箸に目をやると。それは地獄と同じように1メートル以上もあるのです。
「いったい、地獄と極楽は、どこが違うのだろうか?」と疑問に思いながら、夕食が始まるのをじっと見ていると、その謎が解けました。極楽の住人は、長い箸でご馳走をはさむと、
「どうぞ」と言って、自分の向こう側の人に食べさせ始めたのです。にっこりほほ笑む相手は、「ありがとうございました。今度は、お返ししますよ。あなたは、何がお好きですか」と、自分にも食べさせてくれました。男は、
「なるほど、極楽へ行っている人は心掛けが違うわい」と言って感心したという話です。
勘の良い方なら、もうお分かりのはずである。すなわちこのふっぱい、私利私欲のために使うべからず。世のため人のため、為せるべくして為すべし。菩薩の心を心とし、26年間の悪行を悔い改め、ふっぱいを以て世に貢献すべし。さすれば道は開かれ、街という街に活気が漲り、コロナは息を潜め、経済は右肩上がり、野に咲く花は瑞々しく、空の青は宇宙を貫く。君に幸あれ。ふっぱいは世界を救う。嘘じゃない。