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もしもお酒が飲めたなら

下戸だ。
力いっぱい下戸だ。
もし、あなた。ほろよい一缶で酩酊を体験できるのならば、それはむしろ安上がりではないですか。幸福ではないですか。と問う人があるかもしれない。否。下戸はつらい。下戸はつらいんである。
飲みの席、宴もたけなわ。アルコールのたてる臭気と、人間のたてる熱気が混ざって意味わからんくなった室内。いつもの安っぽいオレンジ色の照明。ホールをキビキビ動き回るスタッフの赤いエプロン。それを日常と地続きの感覚で見ているおれ。風呂上がりに海水浴行くぐらい馬鹿げてる。
飲み会と言うのは、じゃんけんでたとえるとあいこを連続しているような状態だ。あっちがグーならこっちもグー、あっちがチョキならこっちもチョキ。勝ちも負けもクソもない。ただ楽しい。人間の神経中枢にアルコールが注入されて、潤んでいく眼やいよいよ佳境の酩酊を、平静どおりの心持で真ッ正面から受けるおれ。相手がグーならおれはチョキ、相手がチョキならおれはパー。つらい。まるで知らないバンドのライブに無理やり連れてこられたような感覚だ。
ばかおめえ、うわっはははは、あははは、ばかじゃねえの、しぬんじゃねえの、きもちわりいなあ、かえれよ、ばかかおまえ、あははははははあはははは、仕事つれえなあ、彼女ほしいなあ、セックスしてえなあ、おれの人生こんなんだったかなあ、あーあ、あーあ、うはははははははははは、ばかおまえ、やっぱしぬんじゃねえの。その横で一人、烏龍茶でおすまししている。なんだこの地獄の構図。人間の体温がアルコールで底上げされた時の独特の臭気や熱気が、おれの周囲にだけ存在しない。ひとりつめたく、烏龍茶。しとり、しとり。なんだこの地獄の韻。サントリーのキャッチコピーでもしてるつもりかよ。

とはいえ。こんな六畳一間のインターネットでしこしこと文章をしたためて、世の下戸の代弁をつとめてやろうだとか、酒豪に対して何かしらのマウントをとってやろうだとか、おれにはそういうつもりは全然ない。お酒が好きな人は楽しく飲んでくれたらいい。楽しそうに笑っている人の顔を見るのは好きだし、羽目を外しすぎて膝から崩れ落ちた人を介抱するのも、なんだかんだ好きだったりする。
ただ、「酔余なんで。小生酔余なんで。こんなことやあんなことも、そりゃありますよ。小生酔余なんで。酔余なんで。明日は宿酔なんで。ともかく今が酔余なんで」みたいなノリでやってきて、いつまでもしつこく絡んでくるようなダル絡みだけは許したくない。そういう奴は世界の果てで、一生独りですごろくやってろ。”酒は飲んでも飲まれるな”という格言を最初に残したのはきっと酒豪だったろうが、見上げたもんである。

もしもお酒が飲めたなら、祖父と一献、交えたかった。短歌じゃねえんだから。字余り御免。

テオ・金丸です。コーポ湊鼠管理人。

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