さてあれからどうしたかというと、詩集の一つ買うわけでもなく、青空文庫をあさってみるでもなく、ただ淡々と暮らしている。詩への恐怖は克己したが、といってページをめくるだけの精神力がおれの中には宿っていない。こうなったら無手勝流で詩を作り、「何をか言わんや」を体現しよう。そしてこれを読むあなたには、どうかそれに付き合ってほしい。
1. 詩と改行と余白
なんでもない文章でも、それらしく改行を挟み、たっぷり余白を取ってやれば、なんとなく詩のように見えてくる。少なくとも詩もどきにはなれる。フォーマットの濫用だとか下賤な奴の発想だとかの批判はいろいろあるだろうが、事実そうなのだから仕方がない。たとえばこういう文章があったとする。
今日の晩飯はカレーライス。丸いお皿。付け合わせにサラダを添えて。ガラスのボウル。ドレッシングをたっぷりかけて。いただきます。
齢27の男が書くような文章でないことは確かだが、この詩もどきの是非を問うのは紙面を改めよう。ともかくこれを詩のフォーマットに落とし込むと次のようになる。
ちょっとギクっとしないだろうか。おれはした。たくさんの余白がコンテンツに視線を集中させ、かつ改行を挟むことで文章に独自のリズムが産まれている。なんとなく音読してみたくてソワソワするが、こんなもの音読したところで頭がいかれるだけだからおれは遠慮する。次はもっと詩らしくないもので試してみよう。
靴下履くときに片足立ちになると思うんだけど、その時ぐらついたりすると体幹ちゃんと鍛えなきゃって思うよね。
訴求力がすさまじい。何を言ってるのかはよく分からないが、これを書いた詩人が決してふざけてなどいないことが伝わってくる。改行と余白には、文章そのものを切実に見せる効果があるらしい。
2. 不道徳
詩に於いて改行と余白がもたらす効果の程は実証された。次は文章そのものにスポットを当ててみる。
改行と余白によって文章の訴求力と切実さが増すのであれば、あとはそれに見合った内容を拵えるだけである。たとえば不道徳的なもの。尋常の理解を得られない披瀝。そうすれば詩の攻撃力を上げられるはずである。詩の攻撃力とはつまり、読み手にギクっとさせる力のことであって、それまでしおらしく暮らしていた女性もつい身持ちを崩したくなるような、命が切なくなるような、俗界の誘惑が鼻先まで漂ってくるような、そういう、つまり、不道徳のことである。例文。
後背位のアングルで撮られた動画を見るたびに、おれは頭の中で音を鳴らす。ずぶり。撮影者の視点がおれの視点と重なり合って、またずぶり。経験人数がひとり増える瞬間だ。
だいぶくるところまで来たのではないだろうか。これはもう、だいぶ詩っぽい。フォーマットは完璧だし、書かれていることもそれっぽい。俗物の台詞が詩の体裁を得て訴求力を増し、ただならぬ迫力をすら演出している。これはギクっとさせられる。
友達の彼女が誘ってきたとき、俺の頭の中にあったのは、据え膳食わぬはなんとやらっていう慣用句だった。おれは酔った頭でその慣用句を完全に思い出そうと苦心して、気付いた時には手淫が終わっていた。
かなしい。くるしい。せつない。
胸のここんところにクるものがある。
3. 生活っぽさ = 人くささ
記事も終盤に近付いてきたので、そろそろ推敲をば、と思って序盤の方を添削していたら、カレーライスの詩がやけに気に入りはじめて、どうしたものかと思いあぐねている。このヤサシイ感じに再現性はあるのだろうか。あるとしたらそれは何か。おそらくは、「生活っぽさ」。と言う名の、人くささ。生身の人間と肌を重ねているときのあの独特の感触、肉でしか再現しえない体温の心地よさ。それがあって初めて、詩は単なるフォーマットや文章の意味を超え、超自然的な印象へと昇華されるのではないだろうか。カレーライスの詩と不道徳の詩をミックスさせれば、真の詩がつくれるのではないか。おれは今、わくわくしている。