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MONO・マニアック

小学生の頃、屑みたいな消しゴムを宝物のようにして筆箱に蒐集している奴がいた。それは本当になんでもない、誰かが失くした小さい消しゴムの使いさしで、共通点といえば角が取れていることと、全体的に黒ずんでいることだけだった。
教師の余計な入れ知恵による発展途上の社会性、さもなければ産まれつきの本能によって、肌がヒリつくほどの熱い差別を日常的に行う子供たちだが、不思議と彼を詰ったりすることはなかった。かといってことさらに褒め称えるでもなく、今思えば一種羨望の眼差しで彼を迎えていたように思う。僕もその中の一人だった。

子供の時分は、道端に転がっている何でもない丸石やおはじきなどにひどく執着してしまうことがある。そして子供はそのことを内心恥じながらも、何か抗えぬ力によって黙々と蒐集する。この性質は主に、社会性の獲得と時期を合わせるようにして徐々に消滅する。かくいう僕にもそんなことがあった。
歳が二桁に入るか入らないかぐらいの頃、僕は小さいカバのぬいぐるみを愛していた。それはもともとぬいぐるみとして作られたものではなく、背面に体を洗うためのネットが括り付けられた、いわば”おもしろ洗面用具”だった。僕はそれを本来の用途に沿って使ったことは一度もなく、無残にもネットを引きちぎってアイデンティティを奪い、単なるカバのぬいぐるみとしてどこにでも持ち歩いた。
男の、もうかなり背も伸びた、長男である自分が、可愛らしいカバのぬいぐるみに執着しているという事実に対する羞恥心は、朧げながら抱いていた。だが当時の僕はそんな羞恥にかまける暇もない程に、カバの手触り、感触、阿保面を強く強く愛していた。
だがある時、本当の本当に一瞬間、そんなことの全てがばからしく思えて、紛失したぬいぐるみをそのままにして放置した。その時の僕には未練など微塵もなく、あれほどこだわっていた手触りや感触、愛したカバの阿保面を、一瞬のうちに忘れ去ってしまった。僕は俗世で通用する立派な社会性を獲得すると同時に、童心の中核を成すなにかを失ったのだ。

さて、かの消しゴム蒐集家はなぜ、子供たちから羨望の眼差しを向けられていたのか。それは、彼がまだ捨てないでいたからである。童心の中核を成す曖昧なもの、吹けば飛び触れれば砕ける脆いもの、それを小学校に上がっても尚抱き続けていたからである。子供達は社会性の獲得を、大人の仲間入りを果たすための査定項目として肯定的に捉えつつも、容赦無き分厚い鉄扉として否定的に捉えている。当時の僕は気づかなかったが、きっとクラスにいる全ての子供が彼に羨望を抱いていたのではあるまい。中にはマセた子供も居て、「あんな屑みたいな消しゴムに執着して、きっとアイツは知恵が遅れてるんだな」などと人知れず憎まれ口を叩いていた奴もいるだろう。

好きなものは好きだ、嫌いなものは嫌いだ。表向きには、大人の社会であってもそれは通用する。だが人は成長するにつれ、好悪に大義名分を添えることを覚え、尤もらしいものを好み尤もらしいものを蔑むようになっていく。

なんでもない凡庸な金沢の街を見遣るとき、僕の心にはあのカバが去来する。僕はこの街を強く愛している。理由も何もない。街が街として存在していること、ただそれだけを愛している。だから僕は嬉しく思う。すっかり成人した自分の中に、あの頃確かに抱いていた脆く儚い童心の核が、それがたとえ残滓に過ぎぬとしても、なまあたたかく残っていることを実感して。

テオ・金丸です。コーポ湊鼠管理人。

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