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この世からおっぱいが消え失せてしまった世界で、尚も生きようとする男たちの号哭

29歳 / 男性

信じられるか。俺たちのバイブルが消えちまったんだ。ある日、忽然と、跡形もなく。それはこんな具合に訪れた。
俺はその日、美沙に会うために電車に乗っていた。よく晴れた日曜日の昼だというのに乗客が少なかったことを、不気味なぐらいよく覚えている。俺はその時ジム・クロースを聴いていた。日曜の午後にピッタリだって、美沙が言ってくれたのを思い出しながら。それからなんとなく、向かいの席に座ってる女子大生ぐらいの歳の女の子に目をやったんだ。俺は少し首を捻った。眉間にも皺が寄った。なぜって、胸が全くないんだ。いくら胸の小さい子だと言ったって、下着のラインぐらいあってもいいはずだろう。無いんだ。男みたいに。ペタンとしている。流線型の美しい鎖骨が、夏の日差しみてぇに白いTシャツの下にフェードアウトしている。そこまではいい。そこから先、あの健康的な膨らみがすっかり失せている。俺は漫画みたいに目を擦って、祈るようにしてまた女の子を見てみた。やっぱり無い。普段は死ぬことだって恐れないこの俺が、気付けばジャンキーみてぇに右手が震えていた。だって、無いんだ、あるはずのものが。
それでも俺は信じきれずに、とうとう、あの子はブラジャーもいらないぐらい貧乳なんだと、無理に自分を納得させることに決めた。でもそれは五分ともたなかった。次第に居心地が悪くなってきた俺は、よせばいいのに左を向いて、恰幅のいいおばちゃんを見た。無い。あの体型からすれば相当あってもいいはずなのに、無いんだ。俺は卒倒しかけた。ちょうどその時、これまた大学生ぐらいの活きの良さそうな背の高い男が一人、ホームから辷り込んできて俺の右手に座った。奴はどうやら俺より先にどこかで異変に当たったらしく、ひどく狼狽して冷や汗なんてかいてやがった。俺はそいつの気持ちが痛いほど分かった。それで、わざと席を立ってそいつの近くに座り直したんだ。所謂意思表示ってやつだ。きっとそれで良かったと思う。奴、必死になって涙を堪えていた。
電車を降りてから、俺は思い至った。美沙は。もしかして美沙の胸も消滅しているのだろうか。途端に心臓が狂ったみたいに鳴り出して、そのせいで頭痛がしてきたほどだった。俺は怒りと焦燥と悲哀とが混じった右の拳で、必死に左胸を叩いて自分を落ち着かせようとした。無駄だった。涙が流れてきた。俺の目に映える女の子はみんな、男みたいに平たい胸をして歩いている。それが不思議とも思っていない。ただ男たちだけが、薄汚れた駅の壁にもたれかかって泣いている。若い奴も、ジジイも、みんなだ。俺も泣いている。メソメソしていると肩に手をかけられて、振り向くとそこに美沙がいた。俺は真っ先に胸を見た。無かった。俺は正気を失ったみたいに泣き喚いて、それが駅中にこだまして他の男も大声で泣き出した。それから力一杯美沙を抱きしめた。彼女も何がなんだか分からず泣いていた。「行こう」と囁く声がして、俺は美沙に手を引かれて彼女のアパートに向かった。

「どうして泣き止まないの」塵一つない部屋で、美沙は俺の手を握っている。
「おっぱいがこの世から消えたんだ、美沙にも無い」
「おっぱいって何」彼女は心底意味がわからないといった顔をしている。
「俺たちのすべてなんだ」
「わたしにもあるの」
「”あった”んだ。綺麗な形のが。でも今はもう無いんだ」
「それが無かったら、困るの」
「とても困る。美沙だって困るはずだ」
「じゃあ、それが無かったら、生きてゆけないの」
「生きてゆけないことはない」そこまで言って、俺は美沙の顔を真正面から見つめた。
「生きてゆけないことはない」俺は繰り返した。そうだ。生きてゆけないことはない。美沙は俺の目の前にいる。愛は潰えてなどいない。俺は弾き出されたかのようにベランダへ飛び出した。クソ面白くもない住宅街のそこここから、男たちの嗚咽が漏れていた。あるいは恋人の、あるいは妻の、あるいは娘の、おっぱいが消滅したことに絶望する男たちの嗚咽だった。俺は喉が潰れるのも承知で叫んだ。「聴け、おまえたち。たしかにあれは消えた。消えたけれどもおれたちは、愛することを知っている。生きてゆけないことはない。愛が生きているのなら、生きてゆけないことはない」。それで今俺はこれを書いている。

44歳 / 男性

痛飲して六畳一間の自室に倒れ込んだ翌日の朝、小鳥の囀りに舌打ちしながら歯を磨いていたら血を吐いた。どろどろして汚らしい、見るのもやっとの代物だった。私はわざとその上から痰を重ねて、憎さげに洗面所を後にした。時刻はもう昼を回っていた。
濃い目のコーヒーを拵えてリビングに腰を下ろすと、もうその日はそれで何もやることが無くなった。私は何か非常に苛立ちながら、マルボロの箱から一本取り出して吸った。貧乏揺すりが止まらない。悪い癖だと承知してはいるのだが、もはや宿痾として諦めることにしている。ところで私は苛々する。リモコンを掴んでテレビを点けた。若い女のニュースキャスターが何やら喋っている。違和がある。胸が無いのだ。
かねてより女体を拝見する機会に恵まれなかったから、理解するのに少々時間を要した。まるで女の顔に男の身体をくっ付けたみたいな居心地の悪さがある。なんとも面妖な女が居たものだと灰皿に煙草を捻じ込みながらチャンネルを回すと、旅番組になった。またも女のリポーターが名店で蕎麦を召している。やはり、胸が無い。
ここまで来て、私はなんだか非常に居た堪れない気分になり、先程の苛々はどこへやら、萎縮するような気持ちが心一面に広がるのを感じた。それから出し抜けに、脱衣所でそのままになっている血と喀痰を思い出し、洗いに行こうと腰を上げた。
粘つくそれを洗い流している間、私は何か世界から重要なものが失われたのでは無いかと考え始めた。それが女体における乳であるのか、はたまた形而上的な何かであるのかは今のところ不明だが、ともかく、湧いて出た焦燥感とでも呼ぶべきものが、にわかに私の心を圧しはじめていた。
洗面所から出た私は、しばらく立ったまま思案に暮れたのち、コンビニへ足を運んだ。そこでポルノ雑誌を買い、家まで封を切らないでおいて、六畳一間に着くや否や恭しくページをはぐった。五、六ページほど見たところで、私は軽い目眩を覚えた。どんな美女のどんな美麗なプロポーションにも、乳房だけが欠けている。そして私は確信と共にポルノ雑誌を床に投げ置いた。
女体から乳房が剥ぎ取られたのではない。はじめから存在していないのだ。
私は座って貧乏揺すりを繰り返しながら、20代の頃触れた乳の感触を思い出した。なめらかな肌触り、吸い付くような瑞々しさ、張り、白さ、曲線美。それが今、この世界からおそらく永遠に失われたのだ。その事実に絶望するのは乳飲み子ではない。われわれ成人した男たちである。私は急にどうしようもない寂寞の念に駆られて、久方ぶりに涙を流した。私はもう、こうなるといけない。ダムが臨界点を超えて止むなく放流を開始するが如く、涙を流す理由を次から次へと、脳裏から目頭へと注ぎ込んでしまう。
俗世の誘惑が一つ、永遠に削除されたこと。これより後散見するであろう、情事の際の手持ち無沙汰に悩む男どもの後ろ姿。何もかもが変わってしまう。涙に暮れながら、私はがんばって顔を上げた。それからベランダへ出て、放心したように街を見遣った。どこからか、街鳴りに紛れて、愛がどうの、生きることがどうのと、しゃがれた声が聞こえてきた。

17歳 / 男性

ようやくこの世から誘惑が一つ消えた。女子どもの胸が永遠にまな板と化したのだ。僕はこの日をずっと待っていた。
男には厄介な本能が備わっている。僕はそれがずっと邪魔だった。セーラー服の胸元がこんもり膨らんでいる、ただそれだけで、僕たち男は否応無しに性を自認させられる。馬鹿みたいだ。自分の中の穢らわしい獣と折り合いをつけて生きるのが男の人生だというのなら、僕はそんな不自然な生を望みはしない。だがここにきて、相対的にではあるが、乳の消失という形で僕の生が肯定されたことを、僕は素直に嬉しく思う。これより先、僕は相手と自分の性を自認することなく、女子と一対一の人間として向き合うことができるのだ。それにどうやら、この異変に気づいているのは男だけらしく、女子は胸が何であるかすら分かっていない。こんなに好都合なことがあるだろうか。
そこで僕は早速、Pornhubにアクセスして自分を試してみることにした。胸がない女体なら、僕の性も掻き立てられないはずだと考えたからだ。結果。バキバキだった。二回も出た。胸があろうとなかろうと、挿入ってるもんは挿入ってるし、淫語は淫語で何も変わらない。いくらでかい引き算をしたところで女の人は女の人だし、僕は僕で男だと悟った。自分の中の獣と折り合いを付けたところで外に出ると、どこか街の遠くの方から「生きてゆけないことはない」と聞こえた。そうかもしれない。自分の中にいる獣は、もしかするとチワワみたいに小さくて、プードルみたいにフワフワな奴かもしれないのだから。

26歳 / 男性

この世からおっぱいが消えてしばらく経つ。終日、鬱屈とした気分が抜けない。街は男どもの号哭に溢れ、ニュースは連日、飽きることなくこの「災害」について報道を続けている。今日は都市圏で「Come back OPPAI」なるデモが催されたらしい。40インチの画面の向こうで、老いも若いも男どもが、目を爛々とさせ街を闊歩しながら、おっぱいおっぱい叫んでは号泣していた。「おっぱいとは何ですか」と問う女性キャスターに、ある男は涙でぐしゃぐしゃになった顔を滅茶苦茶に動かしながら、こう言った。「お姉さん。きっとあなたにもあったんだ。綺麗なものが二つ!俺たちの魂。女の子に面と向かっておっぱいを揉ませろと言って、法に抵触しない世界なんて生きていられるか!お願いだ、お願いだから返してくれ、返してください。お姉さん、おっぱいを揉ませてください!」「ですから…あのう…おっぱいとは何でしょうか」それでその男は膝からくず折れて、両手で顔を覆った。痛ましくて見ていられなかった。
眼鏡を外してーー、これはハフマンスのファーストモデルの逸品だから慎重にーー、ぼやけた街を眺めた。僕はもう泣き疲れたし、これ以上おっぱいについて語ると奥さんにも愛想を尽かされそうなので、この件に関しては一切閉口することにしている。それに、おっぱいが無いからと言って、女の子から女性が欠け落ちるなんてことはない。いつもそこまで考える。そこまで考えて、でも、しかし、この世にはおっぱいが無いのだという現実にブチ当たる。実存は本質に先立つ、だとかなんとか、誰かが言っていたのを思い出す。尤もらしいことを言う前に、だったらお前が説明してみろ。この世界を。セックスの時に、両手を収めるおっぱいが無くて、仕方なく金庫を開けるみたいな手つきで両乳首をこね回している男の哀愁に、何か慰藉を与えてみろ。出来るか。僕にはできない。ずっと誰かに優しくありたいと思って生きてきた。けれどおっぱいを失った男を前に、ねぎらいの声をかけられるほど、僕はまだ釈迦じみていない。

※追記

この災害を機に、想像を絶する困難が僕たちを待ち受けているだろう。街で目と目を合わせた男同士は流血沙汰を引き起こし、次いで治安が悪化し、街はスラム化、出生率は下がり、経済はやがて破綻するだろう。もう二度と、おっぱいにかぶりついて日頃の疲れを溶かしていたあの頃には戻れない。けれど僕は生きる。僕には聞こえる。男たちの力強い号哭が。僕はそれを聞いている。それを知っている。僕もその一人だ。たとえおっぱいが無くたって、愛まで消えたわけじゃない。そうだろう?それに僕たちは、遺すことができる。おっぱいの消えた未来、消灯した六畳間の枕元で、こんな風に語り継ごう。「昔々、女の人にまだおっぱいがあった頃…」語り終わるまで涙は流すな。僕たちはもう十分泣いた。生きていこう。肩を貸そう。乳は揉めねど誇りは高く、ずっとずっと友達でいよう。

テオ・金丸です。コーポ湊鼠管理人。

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