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たとえば、「忘れられない友人の話をしてください」と、暇な誰かに聞かれたとする。おれはそういう時のためにとっておきをいつでも出せるように用意してあって、それはこんな風に始まる。
22歳の7月だった。その年は例年を大きく上回る猛暑で、首筋を焼く日光は刺々しいし、熱せられたアスファルトは好きなだけ陽炎を作るし、おまけにやたらと蚊が湧くしで、とにかく、もともと出不精のおれとしてはなんとしても在宅をキメ込みたい所存だった。
些細な理由から元いた職場の上司と殴り合いの大喧嘩をして勝ち、居た堪れなくなって自主退職したのが今年の5月。後になって同期から聞いた話によれば、件の上司はおれとの殴り合いで前歯を3本失い、顎の骨にヒビが入っていたらしい。それから精神にも変調をきたしたようで、「山村、夜の街で遭ったら絶対殺す」とデスクで目を剥きながらうそぶいているそうだ。生憎おれは酒が飲めないし、女を買うほど飢えてもいないから夜の街に繰り出す理由はない。よって殺されることもない。同期から「あいつそのうちマジでやるかもしんないよ」と聞かされたおれは、一言「次遭ったら一族郎党焼き殺すって伝えとけ」とだけ言って電話を切った。風が爽やかな水曜日のことだった。
そういうわけで22歳の夏、おれは完全に職を失ったニートになり、僅かばかりの貯金を切り崩しながらフラフラ生きていた。家賃は退職したその月から払っていないし、食べるものは一日一食で抑えていた。唯一の理解者だった恋人も、おれが殴り合いの喧嘩を始める野蛮人だと知るや否や、部屋にデカいイヌのぬいぐるみだけを置いてさっさと出て行ってしまった。
薄暗い部屋で即席麺をかっ込んでいると、寂寞感とも焦燥感ともいえない、こう、みぞおちのあたりがぬるぬるする感じがしてたまらず、当時のおれは暇さえあれば近所の喫茶店で漫画を読んでいた。棚に置いてあるボロボロの、何百回開かれたかわからない手垢まみれのものを全て読み終わると、自分で古本屋へ行って調達しては朝から晩まで読み耽った。読んだ後はその喫茶店に寄付してしまうので、通い始めて二週間ほどで棚が一杯になってしまい、マスターに迷惑がられた。とにかくそんな風にクソも生産性の無い日々をだらだら過ごしていた7月の終わり、契機が訪れた。
いつものように「喫茶かまど」の戸を開き、安っぽいドアベルの音を浴びて馴染みの席へ腰を下ろすと、カウンターの奥の方に痩せぎすの男が座っているのが見えた。やけに糊を効かした青白いシャツを着ていて、背を丸めて熱心に何かを読んでいるようだった。おれはアイスコーヒーを頼んでから、古本屋で調達してきた火の鳥全集から一巻を抜き出して読み始めた。
「ヒデキくんさぁ、それまた置いていかないでよ」アイスコーヒーを持ってきたマスターが、半分本気、二割五分冗談、残りの二割五分社交辞令の表情でそう伝えてきた。おれは「職が見つかったら棚も買って寄付しますよ」とか言ってアイスコーヒーを啜った。マスターは独特の、喉に引っかかるような笑い声をたてて奥に引っ込んでいった。
マスターの背中を目で見送っていると、さっき見た痩せの青白シャツの男がこちらを凝視していて、おれはなんとなく居心地が悪くなってきた。とにかく火の鳥を読もうと視線を落とした時、意外にも太い声で「山村?」と聞こえた。おれは驚いて目を挙げ相手を凝視したが、誰だかまったく見当が付かない。考えあぐねていると青白シャツは読んでいた本を閉じて片手に掴み、つかつかこちらに寄ってきた。
「うん、覚えてねえかな。中学で一緒だったんだけど。新屋敷だよ」
「あらやしき?」
「ほんとに覚えてない?おれはよく覚えてんだけどなあ。ほら。中二の時にちょっとした騒ぎあったじゃん、あの、ほら」
いつの間にか新屋敷は目の前の席に腰掛けていて、へんなニヤニヤ笑いを浮かべながら馴れ馴れしく絡んでくる。それで気づいたことが二つある。一つ。こいつ、不気味なぐらいに物音を立てない。ただ静かだというのではなくて、何か静寂そのものを丹田に抱えていそうな雰囲気がある。こっちに寄ってくるときも無音、座った時も無音、なもんでこっちは相手がいつ着席したのかわからなかった。二つ。不気味な印象だが不思議と嫌な感じはしない。気付くとおれは自然と漫画を閉じて脇によけ、それとなく会話の意思を示していた。
眼前にヤツの顔面がやってくると、なるほどたしかにおれはその造形に見覚えがあるようだった。それを契機に、今しがた新屋敷の言った「ちょっとした騒ぎ」、というのを、おれは思い出すことに成功した。
中二の一学期が始まってすぐの頃、おれのクラスで女子の体操着が盗まれるというオーソドックス極まりない事件が発生した。日夜女のケツとゴシップを追いかけていたおれたち中二男子からすれば、この事件は伝聞だけで白米を丼で5杯はいけそうな具合だった。
もちろんすぐに犯人探しが始まった。女子の数名は本気で怒り狂っており、体操着を盗まれた当の本人は泣きじゃくっていた。おれはというと、たぶんあの本気で怒り狂っている女子の中には、なんでアタシの体操着が盗まれないのかと嫉妬に燃えているヤツもいるんだろうな、などと邪推したりして楽しんでいた。他の男子は爆笑するやら無実のヤツに罪をなすりつけるやら、好き放題の乱痴気騒ぎに高じていた。中には担任の諸橋が犯人だと言って大笑いしているヤツも居た。確かに諸橋は40過ぎて独身だった。
事件が発生した翌日の放課後、犯人よりも先に盗まれた体操着が見つかった。これまたオーソドックス極まりない、体育館倉庫の中という場所で。第一発見者は一学年下の生徒会長で、そいつは顔面蒼白になりながら、しきりに「何か付いてたんです。カッピカピだったんです」と繰り返していて、それを聞いたおれは呼吸困難必至というところまで笑った。
体操着がカッピカピになっていたという新たな燃料を受け、犯人探しはついに危険な領域にまで到達した。少しでも盗難の疑いのあるヤツは、「射精組」「チームどっぴゃんこ」「カピバラ」等と呼ばれさらし者にされた。それはまだ良いが、今思っても、一応の被害者である女子たちが一緒になって「射精組」とか「チームどっぴゃんこ」とか連呼していたことが解せない。百歩譲って取り巻きの女子たちがそれを言うのなら分かるが、体操着を盗まれた当の本人も連呼していた。それは何か違うと思う。もっと被害者然とするべきだと思う。
事件発生からちょうど一週間が経ったさる吉日、犯人が自ら名乗りを挙げた。それが今おれの目の前に座っている新屋敷である。彼曰く、一週間も経てばほとぼりが冷めただろうと踏んで仲間内の一人に告白したのだそうだが、完全に読みを誤っている。この秘密は一週間どころか一生寝かせておいて、墓まで持っていくべき案件であることを、彼はなぜ理解できなかったのだろう。おかげで彼はその日のうちに「射精屋敷」とあだ名をつけられ、同学年全員から親殺し同然の扱いを受けた。それで次の日から射精屋敷は不登校になった。一連の騒動はオーソドックスに始まり、オーソドックスに終わった。そのうち誰からの記憶からも薄れていった。
「思い出した。射精屋敷か」
「あのあと大変だったんだよ」
「自分で招いた災難だろ」
「まあでもともかく、今はこうして元気してるよ」
「元気そうには見えんけどな」
おれはそう言って煙草を取り出して一本吸った。新屋敷は相変わらずニヤニヤしながら、何か腹に一物でも持っていそうな雰囲気を芬々させていた。おれは途端に苛々してきた。
「それで何か用?」つとめてぶっきらぼうに言うと、彼は特に面食らった様子もなく、襟を正してハッキリと言った。
「おれさあ、占い師になろうと思ってんだ」
マスターが奥の方で眉をしかめているのが見えた。おれはアイスコーヒーを啜った。
(2へ続く)