困窮、と書くと少々大袈裟だが、ともかく、僕も人並みにお金に泣かされてきた一人である。一社会人としてカウントできるかどうかはさて置いて、自分の飯を自分で確保できるようになってからは、ようやくお金に泣かされることも少なくなった。
あの日、困窮極まりいよいよという段、僕の正常性バイアスはとうとう狂い、「70円はどう考えても大金である」と結論付けるに至った。千円札は桁がデカすぎてよく分からなかったし、万札は夢の中だけの存在だった。たとえ手にしたとしても、普段あんなにも生々しい紙幣のどこにも、現実の感じがしなかった。宝くじを買った人が、外れたときはすぐ信じるくせに、いざ高額当選をするとなかなか信じようとせず、何度もくじをあらためるというのがあるが、僕にはその気持ちがよくわかる。疑うという行為は、人が何かを信じようとする過程なのかもしれない。それはもはや祈りの類だ。
そう、僕も祈っていた。ノート、文庫本、煙草の吸殻、ロクヨンのコントローラー、宅配ピザの空箱、なんかが散乱した八畳間の自室を獣の姿勢で這いずり回り、祈りながら小銭を探っていた。せめて5円が、できれば50円が、畳の隙間から出てきはしないだろうかと。
一通り埃にまみれた後は、もうただ呆然としてベッドに腰掛け、思い出したように引き出しの中身をブチまけて、ポチ袋から抜き忘れたお年玉が無いかと、これまた祈るようにして探る。ひょっこり千円、一万円が出てくるわけがないというのは、もはや経験が語り尽くしているのに、それでも万分の一に懸けて、余すところなくすべてをあらためる。どうしてこのポチ袋をもらったとき、もっと感謝をしなかったのか、と、不自然な憤りと後悔に苛まれる。貰った時は、さも当然の権利と言わんばかりに紙幣を抜き出しておいて、どうせろくでもないことに使い、いざ自分が困窮すれば引っ張り出してきて哀願する。どうしようもない。おれは本当にどうしようもないクズだ。金が無いとは、金が無いとはこれほどまでに侘しいものか。こんな仕打ちはあんまりだ。そりゃたしかに、褒められた人間ではないにせよ、こんなのはあんまりだ、あんまりだ、と、さんざん心で泣いておいて、金を懐にすると途端に傲慢になる。中古で5,000円もするゲームソフトを、「ふん、買えないでもないな」なんて目つきで見たりする。あさましいことだ。
何れにせよ、モノはあるうちが華だ。生あるうちに生を、愛あるうちに愛を、時あるうちに青春を、勃つうちに祝福を。