死後は天に召されよう。
こんな科白を日常で放てば、次の日からあだ名が「ジーザス」になったり、「釈迦マン」になったり、「天竺小僧」になったりするかもしれない。でもそんなことに負けたりしないで、ともかくみんな天国で暮らそう。
天国が如何なるものであるかについては、青年らしく頭を悩ませたこともある。悩ませた頭というのがこれまた、主人のイチモツ同様しなびたキノコみたいにだらしないものだったにせよ、ともかく健気に唸っては、夜という夜を渡り歩いた。どこぞの誰かが愛をささやき、場末のスナックでありもしない栄光を嘯き、帰り道に革靴で酔客の喀痰を踏みつけ、紋切り型の世辞をぶちまけているそんな夜あんな夜に、ひとり天国について考えていた。
まず天国は都だ。たくさんの人が住んでいる。人々は肩書を持たず、等身大の付き合いをしている。わざとらしい世辞やおべっか、浅ましい愚痴や妬みなどは街のどこにも見当たらず、みんなそれぞれの生活に終始している。
好きなだけ煙草を吸い、酒を飲み、淫蕩にふけり、堕落していて、あまつさえそれを釈迦に咎められたときの決まり文句も用意してある。「いやいや、おれはわたしは、もう死んでいるからいいのだ。死んだからここに来たのだ」と。頭の上で光る輪っかをひょいと触って見せて、ウハハハと笑い、「死んでるから、死んでるからいいのだ」とまた、紫煙を吐き酩酊し淫蕩にふける。そしてある時、とうとう釈迦の逆鱗に触れ、是非も及ばず地獄にブチ込まれる。そこで初めて猛省し、地獄の責め苦に正気を失いながら、訪れるとも知れない蜘蛛の糸を切ない気持ちで待ち続ける。大体、こんなところだろう。
要するに、人間は天国には行けない。そういうふうにできている。行けないからこそ天国なのだ。机上の上で完結するから天国なのだ。我々人間は、あるともしれない天国を切なく思い描きながら、現世で何かを書いてみたり、夜ごと愛をささやいてみたり、場末のスナックに甘えてみたり、年頃の娘の太ももに貴重な人生を左右されてみたり、するしかないのだ。それが人間だ。だからせめて死後は、天に召されよう。天に召されよう。みんなで一緒に、天国で暮らそう。おれは切ない。